■還暦にて。呆然2つ。
ずっと未熟で、ジュニアの立ち位置だったはずが、ミドルの認識がないままに、気がつけばシニア、老人です。
そして同時に、人生でこんなことが起きるのか、という事件に直面しました。
2つの呆然。どうしたものか。
超個人的な内省。自分用にメモします。
ちかごろ人生100年、三毛作などといいます。
これまで二毛だとすれば、前半と後半とを分かつ30歳頃の転換は、結婚と子供を得たことです。
前半の一毛期は自分の成長期で、後半の二毛期は家族との生涯。
子供がともに成人し就職し、この1年でともに結婚。
では三毛作期、人生の主役を誰と定めるべきか。
定規を、誰whoではなく、何whatに持ち変えると、20年ごとの四毛作のほうがあてはまります。
1)6-70年代の一毛、2)8-90年代の二毛、3)00-10年代の三毛、4)20年代からの四毛。
1)ガキの遊び、2)役人の行政、3)エセ学者のプロジェクト の時期でした。
4)四毛作期は何と定める。
1)の終わりに少年ナイフができました。
2)の終わりに総務省ができました。
3)の終わりにiUとCiPができました。
自分が関わったアウトプットです。
4)四毛作期は何と定める。
1)テレビっ子だったぼくは情報社会のルール元締めを職場と定め、
2)ニューメディアの高度情報社会に向け官として携わり、
3)ITのデジタル社会に向け学として関わり、
4)AIの入口で「超ヒマ社会」をめざしてiUとCiPを起業しました。
戦争を知らない子供でした。
知る世代に対し引け目を感じていました。
ところがコロナという戦争に遭遇しました。
まだ戦時中ですが、早く戦後を生きてみたい。
その戦争は、二毛・三毛期にデジタル敗戦で日本が没落していたことも見せつけました。
実はデジタルで30年戦争をしていたのに、戦時意識が乏しかった。
先の大戦の責任を問うてきたわれわれ世代は、デジタル30年戦争を生きた世代となり、敗戦の責任をどう取るのか問われます。
ぼくら以上の世代に対しては「黙れジジイ」運動を一人でやるものの、ぼく自身の責任の取り方として、どう動くべきか。
iUやCiPという「場」は完熟させます。
その次の照準をどう定めようかな。
還暦までに考えよう。
と思っていたら、コロナがきて、環境も展望もガラポンです。
急速DXで、超ヒマ社会も想定以上に早く来そうです。
呆然とするわけです。
この呆然は、ゆっくりと片付けようと思います。
すると、もっと呆然とする事態が発生しました。
2)二毛期を過ごした役所の大揺れです。
連日報じられたトップ2名は同期の盟友で、連なる後輩も全員懇意にしています。
あのような形で世間を揺るがすとは。
自分ごととして苦しんでいます。
ぼくの2)役人生活は、メディア政策の対象を増やした時期に当たります。
それまで役所とつきあいがあった企業は電電公社とKDDという独占企業、そしてNHKと民放の技術と経理の担当だけです。
ごく狭いムラの、小さな行政でした。
自由化、規制緩和、デジタル化は、行政の客体を増やす運動でもありました。
ITの新規参入をどう増やすか。放送局以外のコンテンツ業者にどう事業機会を与えるか。
役所の客を増やす営業がぼくの仕事でした。
走り回りました。
官と民がつながる文化をつくる、という点で、今回の案件に対し、ぼくも無縁ではなく、責任の一端があります。
先輩はがんばった。
がんばりすぎて、NTTや通産省や大蔵省とドンパチやって、橋本行革で解体されました。
ぼくは責任をとって辞め、総務省ができました。
同期・後輩もがんばった。
評判はよくなり、いいインフラができました。
だけど、がんばりすぎたのでしょう。
そのがんばりは、ルールから外れ、糾弾されています。
そしてそれは、行政の手法にとどまらず、内容も組織もみないかん、という指弾となっています。
苦しいです。
2)の帰結として解体され再編された役所は、3)のデジタル敗戦と同時に、再び叱られる、その事態に立ち尽くします。
この呆然は、呆然としてはいられません。間を置かず考えます。
そんな還暦であります。