■学長くんガチョーン. 猪子寿之さん
ご存知、チームラボ、猪子さん。みんなのあこがれ猪子さん。起業したころから存じ上げているが、大きくなり、世界のひとになりました。破天荒に見えて、「知」を重んじ、ストイック。そして「つくる」という線がぶれない。カッコいい。
◆チームラボ
アートをつくっているが、ある種この時代、なんらかの世界に最も影響を与えるような作品をつくりたい。まだまだつくりたい。
はじめからアートをつくっていた。それはお金になるとはあまり思っていなかった。チームラボという場を維持したいというモチベーションが高かった。一人ではなにもできない。チームで何かを作り続けたいとおもった。チームによるラボラトリー。実験する場、研究する場。場を維持するのがはじめは大変だった。そのために色んな仕事をしていた。
だんだん企業のWEBやシステムをつくったり、デザインをしたりする仕事が大きくなっていって、200-300人以上の規模に10年くらいでなった。一応それで、明日潰れるという心配が創業期より減った。
アートをやりたい。世界の中で生きていきたい。世界で人類に影響を与えたいというおもいがあった。なので、出資など受けたくなかった。日本のマーケットにどっぷり入りたくなかった。上場もしたくなかった。銀行とも付き合わなかった。手元の現金がはじめはない。
本当を言うと、それもよかった。チームの母体が強くなった。システムの仕事がある上で、アートはずっとつくっていたので、はじめからも10年後もアートはお金にならなくてもいいというスタンスで作り続けていた。売らなくてもいい。
そのタイミングで村上隆さんがオフィスに遊びにきた。世界で発表したら?と台北で個展をする機会をくれた。2011年。それが実質のデビュー。そうしたら世界中からオファーがたくさん来るようになった。いい美術館やいいビエンナーレ大きな展覧会をできるようになった。
はじめの台北にはたくさんの人が来た。世界中でやるたびにたくさんの人がくる。2014年にニューヨークのペースという3大メガギャラリーのひとつが決まって。パンパンになるくらい人が来た。
日本では自分たちで興行をしたらいい、と思い始め2014年の末に日本科学未来館で興行的に展覧会を開いた。日本ではほぼ初めての展覧会。来場者数がその年の3位。1位-20位まではほぼ、ルーブル展やモネ展のような興行で埋まっていた。現存するアーティストで人が来ていたのはチームラボだけ。日本の作品もチームラボと春画展。今年の来場者数の動向で、異例なものとしてチームラボや春画も入っていると春画と一緒になって記事にされていた。そういう社会なんだ、と。
チームラボを一緒にはじめた他のメンバーは、いまも企業のシステムやWEBをつくる仕事をしている。
2011年くらいからアートをつくること以外は一切するのをやめようとおもった。とにかく、すごい作品を作らなければ始まらない。作品があれば世界中から呼ばれる、世界中で人が来る。そこからどうビジネスにするかはあとの話。人が感動して見たい・来たいとおもうような作品、買いたくなるような作品がないといけない。
とにかく作品を作ること以外は何もしない。会議も出ない。人にも会わない。会食もしない。人との会話も無駄だと思い始めた。
◆東京
東京で始めた。共同ではじめた人たちがやっているビジネスのクライアントが100%日本。チームラボのある種の基盤。経済的には成り立っているが、精神的には基盤。
ただ世界中のどこでもいい。たとえば大きな出来事があって制作できない状況になった際は違う場所、平和な場所へ。こだわりはないが、日本語しかしゃべれないし、東京が便利。
世界中でアートを売る、展覧会をする、常設のミュージアムをつくる。
どことも仲がいいというのはとても重要。プライドなどどうでもいいから仲良くしていてほしい。しょぼいからプライドが高くなる。しょうもないことでいきがってしまう。実態的に豊かでいい社会をつくればいい。豊かさは交流の量。むかしから世界中の中継地点になればなるほどその都市は経済的にも豊かになる。社会も多様化する。
◆学校
四国の田舎者だった。そこから出たかった。今みたいなことをしたかったが、どうしたらいいかわからない。県立高校で周りは学校の成績があまりよろしくない方々。
当時の想像力で思いついたのが東京。色んな人に出会えて、世の中のことが申し越しわかるし、仲間ができたらいいなと東大に行った。そういう意味では結果的に一緒にはじめる仲間ができたので、よかった。
高校も大学も理系だった。サイエンスは学問として積みあがりやすい。サイエンス的・数学的に世界を捉えられる。そうでない人は言語的に世界を捉える。言語的に捉えると言葉によって全体が分割される。例えば、宇宙と地球は境界なく連続しているが、地球という言葉を使った瞬間にまるで境界線があるかのように、脳に認知のバイアスがかかってしまう。ある病気で流行り、今日100人死にました、といったときにそれが多いと思ってしまう。確率的に考えると、60億人中の100人であればそれは道歩いているより安全だ、となる。
物事をサイエンス的に捉えられるか、言語で認識するかで、世界の捉え方がそうとう違う。サイエンス的・数学的に捉えられた方が、言語に騙されにくい。言語はコミュニケーションとして使うので、人間である限り言語的認識はつきまとう。そうではなく、サイエンス的・数学的な認識は教育によって先人たちが積み上げてきたものをいただく。サイエンスや数学を教育として受けたことや自分で勉強してきたことは役に立っている。物理系・数学系の大学だったことは非常に良かった。
幼少期から教科書がすごく好きだった。国語の授業やテストは嫌いだったが、教科書は好き。この世のよい小説や論文がDJみたいに一番いい部分だけ。読み物としておもしろい。東大の受験で過去問を解く。国語の東大の問題が大好きだった。サイエンスやアートなど文化的な論文がピックアップされていた。
◆知
知については全面的に肯定している。逆にそれ以外を全面的に否定している。知以外は全く役に立たない。人間関係はどうでもいい。言語は知とはおもってない。
自分が制作しかしなくなったのは、制作の途中ですごくニッチで自分たちにとってしか意味のないかもしれないけれどすごく汎用的な知を発見した場合、その知は全員が使える。制作物のクオリティが上がる。たとえばLEDの光らせ方をすると必ずきれいだという知を発見した場合、全部がきれいになる。知は組織が大きくなればなるほど効果が大きい。
汎用的な知は大きな組織を生産性やクオリティを上げる。抽象概念の知は恵まれた人が発見することだが、手を動かしながら作るプロセスのニッチな知はやっていると確実にたくさん見つかる。数式やソフトウェアになるような知。
◆キミたちへのメッセージ
工学や数理系のバックグラウンドがないと、なにか大きなものをつくることができない。そういうバックグラウンドをしっかりつけたほうがいい。
本質的には教育によって誰もが身につけられて、積み上がっていくこと。
日本の学校のとても嫌いなところは、汎用的でない常識・道徳・倫理的なこと、現状な社会を保つために必要な訓練・今日だけ通用する価値観と知がごっちゃになって教育を受けること。1+1=2は普遍的な知。気をつけをする、というのは普遍性がない。同じ人がこれら一緒に教えるので区別がつかなくなる。知とわけてほしい。子どもが知を嫌いになる理由のひとつなのでは。
本来人間は知が好き。知ることも覚えることもエンタテイメント。知が増えないと好奇心も増えない。知と好奇心はセット。