■学長くんガチョーン.青山友紀さん
電電公社の研究者から東大教授、慶應教授。アカデミズムの大御所です。慶應時代にずいぶんお世話になりました。
◆いままで
1943年戦前に生まれた。母の実家京都・八木町に疎開。京都は爆撃もなく、農業をやっていたので食料も心配がなかった。4歳のとき、父の勤め先旭化成の工場のある宮崎県延岡市へ。中学のとき、東京杉並区へ。東京大学へ入った。電気電子工学の専門へ。その後修士へ。卒業の年(1969年)大学紛争が起こった。NTT(電電公社)へ入社。1969年はARPANETが初のパケット通信・最初の月面着陸・ビートルズ解散などが起こった。
1973年から1年間MITへ。その後NTTの研究所を転々と。1997年東京大学工学系研究科の教授へ。2006年に定年し、慶應義塾大学のDMC研究機構へ。SFCや理工学部へも。
その後、NPO法人ブロードバンド・アソシエーションの理事長。いまはブロードバンド・アソシエーション 特別顧問、東京大学 名誉教授。
◆研究
伝送・デジタル信号処理・光。4K。世界で初めてスクリーンに映すシステムを三菱・VICTORと共にNTT研究所でやった。映画で。2001年に動いた。井深賞・高柳健次郎賞などをいただいた。東京国際映画祭にてデジタルTIFFを実施した。
◆学生時代
2年間の教養時期は高校の続きのようで、やる気が起きずクラブ活動に熱中。自動車部。1964年東京オリンピック時、報道陣を載せて会場へ行く運転のアルバイトをした。NHKの大きなカラーテレビで東洋の魔女の決勝戦を見た。驚愕した。首都高がオープンした直後にぶっ飛ばした。勉強せずそういうことばかり。
3年生から専門課程へ。それまでは先生の講義を聞いて、試験を受けるだけ。卒業論文はいままでにないことをやる。自分で新しいこと・アイディアを試すということがよいとおもった。初めて大学を感じた。猪瀬博先生からIEEE(国際学会)に入るように言われた。とてもエキサイティングだった。特許を書けともいわれた。齊藤忠夫先生に指導を受けた。
◆キミたちへのメッセージ
卒論は極めて重要であり、全力で取り組め
出だしの3年間が勝負
5年で一つの専門を獲得
外に出る場合はその後が望ましい
学会には加入しろ
30歳前半までに海外を経験しろ
英語は必須、相手は日本人でないから
常に周囲に外にアンテナを張れ
★後記
大先生が勉強せず自動車部だった、とは知らなんだ。そこからアカデミズムに移ったスイッチは実のところ何だったのだろう。今度また掘り下げて聞いてみよう。